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松永の下駄とは

 
松永の下駄とは
 

松永は本荘重政が、万冶3年(1660年)福山藩主に進言して干拓し、塩田を構築することによって出来た町です。

下駄作りが始まったのは明治11年頃と言われています。塩を炊く薪の中に燃やしてしまうにはもったいない大きな材木があり、それから下駄を作り始めたと言われています。それまでの「下駄は桐材」という概念を打ち破って、安い雑木を使うようになりました。作られ始めた頃は「アブラギ」という木が使用さえていましたが、この木が使われるようになったとしてふたつの説が言われています。


 
 丸山茂助説
 
松永で下駄屋を営んでいた茂助が、山陰の材木屋に下駄材を探しに行った所、家財具にも建築材にもならないアブラギというものがあり、肌は白く年輪もはっきりしないで桐材に似ているので下駄の材になるのではと気づき、しかも山陰には松永から塩を積んで船が行き、帰りは空船になるので これにつめば運賃も安くなる、原木も安くて材料費も格安になることから入れるようになった。

 
 尾道船問屋説
 
裏日本一帯から来る塩積船が往路の荷として、阪神方面へ材木を運んでいたが たまたまアブラギという木を積んだ船が尾道に入港、この材の向くところはないだろうかと船問屋に相談したところ「松永で下駄を作っているがその材とならないか」と提案され下駄屋に持ち込み試作したところ桐下駄に似たものが作られたので下駄に向くのならわざわざ大阪に運ばなくても松永に降ろして塩を積み込んだ方がいいと取引が始まった。
 

いずれにせよ、原木は桐に比べて安く運賃も塩の片荷とあって格安。製造工程も機械化され大量生産出来るようになり「安い大衆向きの下駄」として全国に普及しました。

その後材は色々と変わり、現在は米産のコットンウッドが使われています。

松永下駄の発展の要因として、
 ●海岸に位置するため原木の輸送に便利。
 ●塩浜の海水導入の為の水路が材木運搬に利用できる。
 ●塩浜で働く人の雨天・夜間の副業として人的資源が豊富だった。
 ●下駄が日用品で消費が激しかった。
以上のことが考えられます。

しかし、ピーク時は年間5千万を製造し全国シェア1位を誇っていた松永の下駄も生活様式の変化によりその需要が低下、近年ではさらに安い中国産におされ悲しいかな、町の下駄屋さんも少なくなってしまいました。

 
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